August 26, 2010

途上国共通の印象

実は南北アメリカ、オセアニアには行ったことないんですけど、割といろんな国に行っている方だと思います。旅行、仕事、あるいはストップオーバーなんかで、ざっと数えて30カ国くらい行ってるかな。

それでいつも思うのは、「途上国」共通の特徴ってなんだろうか、ということなんですよね。そりゃ、明らかに貧しければ途上国です。汚い池の水を汲んで飲料水にしてるとか、子どもが学校にも行かずゴミ箱漁ってるとか。そういう現象面の途上国ぶりを挙げるのは簡単なんですけど、気になるのは、どうしてそういう社会になっちゃうのか、何か共通のパターンがあるのだろうか、ということなんです。

何で、発展しないんだろう。

植民地支配時代からの歪んだ経済・社会構造が解消されない、自然環境が厳しい、政治が安定しない/腐敗している、競争力のある産業がない、そのどれも発展しない原因になりうる。

識字率が低い、衛生状態が悪い、食料難である、失業者が多い、医療機関がない。結果としてそんな状況に陥っており、その状況が世代を超えて受け継がれる悪循環を作っている。

どこで間違ったんだろう。

このブログでさらっとまとめられるような議論ではないし、このテーマだけで山ほど本や論文も出版されています。ただ、ただですね、途上国、先進国、まあその間の中進国を30カ国余り歩いてみて、発展していない国、あるいは少なからず豊かな人々がいても、どこか途上国風情から抜けきれない国には、なんとなく共通した印象があるように思うんですよね、私の主観に過ぎないかもしれないですけど。

「明日までにできます。」「こちらから後ほど電話をかけ直します。」「開会は午前9時です。」「これで問題ないはずです。」「たまたま今日は品切れです。」「不良品だったら交換します。」・・・この手の小さな約束が、およそ信用できないのが途上国っぽいと思うのです。全部、自分で責任を持って確認しないとうまくいかない。思い出してみると、ダメな国はみんなこんな感じだったような。できると言ったことができない、やると言ったことをやらない。どんなに見かけ上は豊かでも、曖昧な言葉なので使いたくはないんだけど「民度」が低いと、途上国っぽい印象が出てしまう。きっと彼ら彼女らはウソをつく気はないんでしょうけど、結果的に、日本人の私の常識からすればウソと同じことになってしまってます。もう、慣れましたけどね。

これが国が発展しない理由です、とは言えない。でも、国が発展しなかった結果こういう人間がいっぱいできました、とも言えない。要は、発展できない悪循環の輪の鎖の一部なので、理由でもあり、同時に結果でもあるんでしょう。

さて、とはいっても、何の答えにもなっていない。

どこで間違ったんだろう。何で発展しないんだろう。現に今、途上国である社会の特徴的な印象は共通なものがありますって言ったって、それは、はあそうですか、というだけの話であって、発展しない(あるいは少なくとも今までは発展していなかった)原因を説明したことにはならない。ましてや、解決策も提示できない。

まあね、明確な説明と、すっきりした回答がある問題ではないことは確か。強いて言えば構造の問題であり、システムの問題なんだよね。

少なくともじゃんじゃん援助をすれば解決するというような問題ではないよね。ひとりひとりの善意は大切だとは思うけど、篤志家の慈善活動もその成果は問題の全体像から見れば些細なものだったりする。

*   *   *

私個人としては、結局のところは、途上国の人々にも金儲けをしてもらうことしかない、と思うのです。小さくてもいいから、ビジネスを、経済活動を盛り上げるしかない。社会や個人の規律-decipline-もそこから生まれるんじゃないかと。国際援助も必要だけど、できることには限界があって、それだけでは問題が片付かないのは確かだと思うよ。

要は「経済」なんじゃないかと。

まあ、原因はそれだけではないし、「経済」のために援助も必要なんだけどね。「経済協力」なんて言葉もあるくらいでさ。

August 21, 2010

人間に限りなく近いヒューマノイド

古典的な話題。

人工知能はどこまで人間に近づけるか。ヒューマノイドは作れるのか。

どこまでハードウェアが精緻になっても、どこまで天才的なコードが組み込まれても、最終的には人間とは同じにならない。たとえ「経験」や「記憶」をデータとして準備してシステムに組み込んでも、人間だけが持つ、不合理なノイズのようなものが、人工的には再現できないコードのかすかなもつれのようなものが「意識」を生み出しており、完全な人間にはならない。

というのは、映画「攻殻機動隊」シリーズで押井守氏が提示しているモデル。その「人間にしかないノイズのようなもの」を、「ゴースト」と呼び、本当の人間の「ゴースト」をシステムに組み込むことをめぐる物語が展開される。「ゴースト」を得たシステムは意識を持ち、それがネットワークの中に息づくのかも、というお話。

いや、「ゴースト」なんて関係なくて、与えられた外部からの刺激に生身の人間が示す反応を悉く模倣するシステムがあったら、それはもはや人間とは区別がつかないではないか。それが意識を持つ持たないに関わらず、生身の人間が示す反応と同じ反応を示すのであれば、傍目にはそのシステムは人間とどう違うというのか。

というのは、映画「ブレードランナー」で登場する「レプリカント」呼ばれたヒューマノイドみたいな存在。機械なんだけど、究極まで人間を模倣するので、人間とレプリカントを区別するのは容易じゃない、という設定だった(ような気がする)。


思うに、高度に可塑性のある(たぶん有機的な)人工知能を備えたシステムがあって、それを実際に「育てて」みたら、本格的に人間に近い人工知能を作ることができるんじゃないだろうか。押井守氏の提案するような「ゴースト」を収容できるシステムで、かつそれに成長が可能であったら、そのシステムをあたかも子どものように育てていけば、完全な人工知能になり得るのではないか。だれかボランティアを募って、システムを養子にしてもらうの。そのシステムを収容するハードウェア—身体ーにどんな形を与えるのかも思案のしどころになるだろうけど、とにかく、赤ちゃんのシステムを普通の赤ちゃんと同じように扱って、何年もかけて育ててみたら、それはもう人間の意識と同じものを宿すかもしれない。

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と、ここまでぼんやり夢想して、気付いた。外部刺激を記憶し経験を積むせること、そして成長させることが人間と遜色ないヒューマノイドを作る方法だとしたら、そのヒューマノイドは死を意識するのか?

もしかして、人間が人間であること、どこまで精緻に作られても機械であるところの人工知能と人間が同じでないことの根拠は、人間が有限の時間を意識していることなのではないだろうか?

スピルバーグの映画「A.I.」で登場する子ども型の愛玩ロボットは、いつまでも子どものままだったね。でも、経験を積み、記憶を増やしていくことができる。昔を思い出したり、懐かしんだりする「感情」を持つ。そんな愛玩ロボットは、長く可愛がっていたらどうなるんだろうか? あの映画では愛玩ロボットは8歳だか10歳だかの男の子の形状をしていたけど、そんなロボットを10年、20年と可愛がったらどうなるのだろうか。8歳の子どものくせに、20年の人生経験を持つ状態というのはあり得るのだろうか。あの映画では、愛玩ロボットは経験を積み、記憶を蓄えていくことができるように見えたけど、そうだとしたら、成長してしまうのではないか。大人になってしまうのではないか。経験を積み、記憶を蓄え、知識を得ていくのに成長しない、という設定が可能なのだろうか。残念ながら「A.I.」では、そんなところまで描いてはいなかったですね。

「銀河鉄道999」の主人公・鉄郎は、永遠の命を可能にする機械の体を手に入れるため銀河を旅する。しかし、機械の体をタダでくれる星に到着したところで、機械の体を手に入れることを止める決断する。生きていることは、有限の時間を意識すること、永遠の命を可能にする機械の体を手に入れてしまうと、それはもはや生きていることにはならないのではないか、と考えた(んじゃないかと思う。原作者の松本零士さんの考え、なわけだけど。)。

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人間に限りなく近いヒューマノイドとは、成長し、いすれ死んでしまうシステム、という定義はどうだろうか。

しかし、これってなんだか「生きている」ということはどういうことか、という定義に近いよね。
要は、人間に限りなく近いヒューマノイドとは、人工の生き物、人工生命体である、と言ってるに近いな。

仏陀は、「生」「病」「老」「死」を誰も決して逃れることのできない四つの苦しみとして挙げた。命あるものが絶対に避けられない現実。ということは、逆に言えば、この四苦を逃れているものは、命がないものとも言える。

完全なヒューマノイドは、人工の生き物であるとすれば、このヒューマノイドは四苦を実感するのだろうか。


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ぼやぼや考えるだけで、なんの結論も出ていないんだけど、人工知能の研究が認知科学や心理学、哲学と切り離せない関係にあるのは分かったよ。

August 15, 2010

社内英語化、やりたきゃやればいいんじゃないの?

ちょっと旬を過ぎた話題になりますけど、楽天やユニクロが社内の共通語を英語にすると決めたという話。三木谷・楽天社長は決算報告の会見を英語で行って注目を浴びたりしておられます。社内共通語を英語にするということについては賛否両論ですが、なんとなく反対派の人の声が大きいように見えます。どうなんでしょうか。

「能力があって英語が出来ない人と、能力がなくて英語が出来る人、英語化すると後者が優勢になって会社のためにならない。」
「能力があっても、苦手な英語では能力が十分に発揮できない。いつもアウェイで勝負するような不利な状況に置かれる。」
「顧客とは英語で仕事できない。佐川の配達員にも英語で対応するのか?」
「日本人同士で英語で話をしているのは滑稽だし、不気味だろう。」
「TOEICが基準点に達しないとクビなのか。それってひどすぎる。」

などなど。たしかに一理あるように思いますけれども、私は、どちらかというと「英語化?いいんじゃないの?」という感想を持っていますよ。だって、一企業の判断なんですもん。会社にとって、社内を英語化した方が商売がやりやすい、そちらの方が会社の成長にとって都合が良い、と判断されたということなので、だったらそうすればいいんじゃないですか?という、安易な考えなんですけれどもね。

楽天もユニクロも、グローバル展開を図っていくには世界各地に存在する(ことになる)事業所間で円滑なコミュニケーションが必要で、そのためには日本語を標準としていたのでは都合が良くない、と判断されたのでしょう。また、グローバル・マーケットに打って出るに際して、社員の英語力の不足を感じ、多少の無理を押してでも英語化を宣言した方がよいと思われたのでしょう。英語化による非効率の発生を天秤にかけても、やっぱり英語化した方がビジネス上の利点が多いと判断されたということで、周りがとやかく言うことでもないかなと思っています。

「能力があって英語が出来ない人と、能力がなくて英語が出来る人、英語化すると後者が優勢になって会社のためにならない。」って、その通りになってしまって会社の業績に影響がでるような事態になれば、それは経営判断としての英語化が間違っていたということになるだけです。

たしかに見回してみると、かつてのように海外事務所に日本から社員を赴任させ、本社の指示を仰ぎながら事業を展開する駐在員派遣型の海外事業展開は、今どきの国際市場では非効率が目に余るものになりつつある。中国市場でもインド市場でも、現地には優秀でグローバルな人材はたくさんおり、わざわざ日本人を送らなくても、現地の人材を採用した方がよほど効率的だと思う。現地の人の方が、現地の言葉、現地の商習慣にも通暁しているわけですし。海外生活が不慣れな日本人がオタオタしながらなんとか現地に順応し、それからやっと仕事に取り組みます、というのではなんとも遅いし、現地で雇った人には太刀打ちできないでしょう。現に、パナソニックは新規の採用の8割は外国人にする、ということになっているらしいし。

そういう国際的なビジネス環境になれば、社内の標準言語を英語にした方がいいかもね、という判断もありえるだろうなぁとも思いますよ。

公立学校や役所が英語を標準にするという話ではないのです。そんな話には断固反対ですよ、もちろん。十分な母国語の運用能力があっての外国語だし、言語は文化と一体のもので、それをおろそかにはできない。英語教育を小学校から義務化する、なんていう話も、考えなくてはいけないことがたくさんありそうで、「はいそうですか」とは賛成できないです。

ただ、グローバル市場で商売をする一企業の判断としての社内の英語化は、別の話。英語化が便利だと思えば、その便益が不便を上回るのであれば、そうすればいいじゃないって思うんです。

August 13, 2010

カガメ大統領の再選

「ホテル・ルワンダ」という映画があったの、覚えてます? 1994年、ルワンダのツチ族とフツ族(「族」という表現は差別的だという批判もあるようですが、言葉狩りをしても仕方ないのでそのままにしておきます)の対立が先鋭化して、フツ族によるツチ族の「民族浄化」が勃発、そんな中でフツ族のホテル支配人がツチ族の人々をなんとかして守ろうとした必死の行動を描いた映画です。実際に起こった悲惨な出来事なんですけど、「残酷でしょう?かわいそうでしょう?」っていう扇情的な演出を避けて、比較的さらっと描いたのが逆にリアルさを際立たせていた映画だったように覚えています。

日本ではメジャーな配給会社による上映がなく、あまり日の目を見ないままお蔵入りになりそうだったところだったのに、この映画はもっと広く公開されるべきだという市民運動、署名活動が拡大して、結果的にそれなりのヒット作になったという経緯も興味深かったですね。

そのルワンダなんですけど、第二次世界大戦後では最悪と言われた民族浄化からほんの15年しか経っていないのに、首都キガリはいまやアフリカでもっとも治安がよく、成長著しい注目の都市になってます。スタバを彷彿とさせるような清潔でシャレたカフェなんかも繁盛しているし、インターネットの普及率も高いなんていう話を聞きました。

その立役者がカガメ大統領。私がカガメ大統領がしゃべるのをちゃんとテレビでみたのでは、ユアン・マクレガーがアフリカ大陸をバイクで縦断するという番組でルワンダを通ったときに、妙に気さくにユアンの訪問を受け入れていた時でした。カガメ大統領はユアンを自宅に案内し、大統領がここまで私邸の中をテレビに映させてよいのかしらん?とか思ったの覚えてますよ。細身でひょろっとした体躯で、哲学者然とした語り口が好感を持てました。

民族浄化、国民同士が殺し合いをやった後の初代大統領ですから、悩みも深く、やることも多く、こういう思慮深い賢人宰相型の大統領がふさわしいんだろうなぁとも思った。

*   *   *

ルワンダの大統領の任期は7年。先週大統領選挙が実施され、カガメ大統領は93%の支持を集めて再選されました。まあ、普通に見てれば順当な結果だなと思います。

ただ、ですね。

選挙前から、あまり気持ちのよくないなニュースがぱらぱらと流れてきたのです。まず、カガメ大統領の対立候補で有力な人物は、ことごとく選挙に立てなくなっている。ある者は逮捕拘束され、ある者は被選挙権を停止され、またある者は暗殺されている。メディアの締め付けも厳しく、大統領与党の批判は事実上行えない状態になっているらしい。まあ、ジェノサイドからたった15年でここまで経済を回復させ、社会を安定させた功績は大きいので、批判しにくいカリスマになっているとは想像されますけど、それでも当局が批判を封じてしまっているという情報はちょっと気になる。

で、こないだBBCのインタビュー番組に出ていたカガメ政権の女性の外務大臣は、「ルワンダの悲惨な過去は、過去とはいえまだつい先頃の話で、こういう情勢では民主主義よりも国民の和解を優先せざるを得ない、そのためにある程度強権的な政権運営はやむを得ない」というったような趣旨の発言をしていたんですよね。事実上、反対派の弾圧を認める発言に聞こえた。

うーん。

アフリカをはじめ、世界の脆弱国家を見てみると、民主主義の実践が最前の解決策で、絶対的に正しいと断言できない実情があるのは、確かにそうなんですよね。特に、欧米の主張するように厳密に自由で公正な選挙に実施が絶対的に正しい、とは言い切れないところがある。現に、東南アジアは今でこそ繁栄を享受し、いろいろ不都合はありながらもとりあえず民主的な制度と認められる程度のことはやっているけど、ついこの前まではどこも開発独裁の国ばっかりだったわけです。国民の教育水準とか、経済水準とかがある程度の条件を満たさないと、自由選挙が社会の安定を逆に損なうことも多くて、スタートラインに立つまではある程度強引な政権運営が必要だったりする。

一種の哲人政治だと思うんですよね。Wikipediaによると、哲人政治とは「哲人王を統治者とする独裁政治体制の一種」とある。マルコスが、スハルトが、リー・クアンユーが、マハティールが「哲人王」であったかどうかは議論の分かれるところでしょうが、開発独裁は衆愚政治を避けるためのひとつの解決策であったともいえる。民主政治をやっても衆愚政治に陥らないところまできて、初めて自由で公正な選挙をやれるのかもしれない。哲人王というよりは、私欲のために国家を利用しただけの僭主だった支配者もあまたいるんですけど、開発独裁は過渡的体制として機能したことも確かだと思う。

カガメ大統領の哲学者然とした人物像と大統領第一期目は業績は、カガメ大統領を事実上の哲人王、少なくとも開発独裁と見なすに足るものなのだろうか。先週の大統領選挙は、カガメ大統領を哲人宰相と認証するための儀式だったのだろうか。

思い起こすのは、ジンバブエのムガベ大統領。30年前のジンバブエ独立は、人種差別政策をとってイギリスがら一方的に独立宣言をしていた南ローデシアのスミス政権を、ムガベ氏らが率いる愛国戦線が打倒して獲得したものなんですよね。独立後のジンバブエは人種差別の撤廃を打ち出し、現に当時の内閣には白人の大臣もいた(って、現在もジンバブエの教育大臣は白人なんですけど)。イギリスはムガベ氏の業績を高く評価し、「Sir」の称号まで送っている。

ところが30年後の今はどうか。1980年代の黄金時代はどこへやら、政権幹部は私利私欲に走り、経済は崩壊し、国際社会からは孤立し、民主的とはおよそ言えない選挙ばかりを繰り返し、白人・欧米を露骨に敵視し、英連邦からは脱退し、推しも推されぬ世界の問題児です。ムガベ氏だって哲人王かと思われた時代もあったのに、です。

対照的な南アフリカのマンデラ氏の例もある。高齢だったというのもあるのでしょうが、デクラーク政権で最後になった白人政権を清算して新・南アフリカの礎を築いたところの早い段階で後任を立て、民主的な選挙で後任の大統領が選ばれる環境を作った。いまや神格化されたマンデラ氏を批判することは御法度になっているし、哲人王のまま晩年を迎えていらっしゃる。(実際には縁故主義の問題もあったらしいんですけど、もはやだれもそんなこと口に出せないでしょうね。)

カガメ大統領はどういう道を進むのか。今のルワンダ経済の好調ぶりを見ていると、そう遠くないうちに西側諸国が標準的と認めうる民主主義の実践が可能なスタートラインに達するかもしれない。そのとき、カガメ大統領は自由で公正な普通選挙を実施できるのだろうか。

とりあえず、大統領二期目の任期の新しい7年が始まりました。今後の動きが気になります。

August 10, 2010

自己肯定感の根っこのところ

前回、「今どきの就活って憂鬱だね」っていうエントリを書いたのですが、それに関して思い出したこと2点。

今どきの就活って、人が人として生きていくための基本ともいうべき自己肯定感、社会に対する無条件の信頼感みたいなものをぶちこわしちゃう構造になってるんじゃないかっていう感想を書いていたんですけど、その仮説を補強するような話を思い出した。

ひとつは、孤児院の子どもたちの死亡率が、一般家庭の子どもたちのそれ比べて有意に高いっていう話です。どこで聞いた話なのか忘れたし、今から一次データを探す元気もないんですけど、ありえる話かもしれない、と考えてます。日本の孤児院だったら、特別に栄養状態が悪いとか、医療がまともに受けられないとか、そういう環境ではないはず。衣食住はちゃんとコト足りて、学校だってそれぞれの個性や能力に合ったところに行くくらいのことはできていると思うんです。私大の医学部に行きます、なんていうのは無理だろうけどね。

なのに、死亡率が高いらしい。確かその話を聞いたときに指摘されていたのは、子どもが風邪こじらせて肺炎になったりするとあっけなく死んでしまうような事例が、一般家庭よりも多く起きているということでした。医者にも診せてるし、投薬もしてるのに、なぜか孤児院の子どもの方が命を落としやすいそうで。

これもね、見返りを求めない親のからの愛を十分に受けなかったことが理由の一つじゃないかと思うんですよ。無条件に「自分はこの社会で受け入れられているんだ」と実感する機会が十分でなかった。自己肯定ができていなかった。それが生命力の差になってしまうんじゃないでしょうかね。

もうひとつ思い出した話。これもどこで聞いた話なのか忘れてしまってるんですが、だれかが「母親が亡くなってから、本当に自分の人生が始まった気がする」っていうのを言ってた(か、書いてた)。まだ両親が健在な私がこの話を「分かります」なんていうのは思い上がりだろうし、本当のところはそのときが来ないと実感できないんでしょうけど、それでも、そういうこともあるかもね、と思ったんですよ。

この世に生を受けてから接する最初の人、その先に広がる人間社会への最初の窓口となる人が、母親ですよね、普通。この人から無条件に愛されることで、子どもたちは生きていくことができる。社会が自分が生きていくことを肯定してくれている、それどころか、積極的に生かそうとしてくれる、という実感を、まずは母親から学んでいくのだと思うんです。自己の存在を確認するための、最初の他者が母親。
子どもは学校に入り、社会に出て行くにしたがって、自分の世界を広げていくんですけど、社会に対する信頼感の根っこは両親、特に母親にあると思うんですよ。

そして、その人が亡くなる。そのとき、自分は自分が切り拓いてきた世界と、それまでに培ってきた経験を以て、社会に対する信頼感を確立できているのか、自己の存在を肯定できるのか。足場を組んで建てた塔から、初めて足場を外すときのような危機感があるのだと思う。その塔は足場がなくてもスクッと立っていられるのか。「本当の自分の人生が始まった気がする」って、足場が外されて、まさに「自立」することが求められることなんでしょう。


就活の話から始まりましたが、最後はなんだかマザコンについての分析みたいな話になってしまいました。

August 07, 2010

今どきの就活って憂鬱だね。

このところ、新卒の就職率が悪いとか、就職活動が大変だとかいう記事がたくさん出てますね。そもそも新卒一括採用というシステムがもはや合理性を失っているのに、未だにそれが支配的な採用システムで、これじゃ日本企業の活力も無くなるし、若い人材は潰されていくし、大学ではまともな学究活動ができないし・・・というような話もよく聞く。内田樹先生の「日本の人事システムについて」とか、どこで読んだのか、山田昌宏先生のお話とか、いやあもう、まったくそうだと思いますよ。

私自身が新卒(っていうか院卒)で社会に出たのは1996年で、当時は大学3年、ひどい場合は2年の秋から就活はじめなきゃいけないというようなとんでもない状況にはまだ至ってなかったけど、「就職超氷河期」なんて呼ばれた時代で、それなりに厳しい時代だったし、結局今に至るまで、6回、7回も転職を重ねることになってしまってるので、今、就活をやっている学生の人たちのストレスも分かる気がする。

そう、内田先生のエントリにもあるように、査定される側に立たされて、なんの基準だか分からないところで査定されて、わからないところでダメ出しをされてしまうという構造にマイッてしまうんですよね。採用側はあたかも合理的な基準で(でも、明かされない基準で)査定しているように振る舞うので、採用される側は訳も分からぬまま「自己分析」だの「志望動機の充実」だのに走っちゃう。で、「ご縁がありませんでした」なんて言われることが続くと、自分は社会に役立つ人間ではないのではないか、社会に必要とされてないのではないかと、不安をつのらせ、精神的にマイってしまう。自信を失ってしまう。自分自身を認めることができなくなって、本当に社会に出れなくなってしまう。

しかも、多くの日本の会社は新卒の一括採用を続けているし、「新卒」のブランドは未だに絶大なので、大学卒業のそのときに就活に失敗してしまうと、もう、挽回不可能な感じで、なんだか人間的に否定されたようなダメージを受けてしまうんだよね。

*   *   *

ちょっと話はずれていくんだけど、人が社会でよく生きて行くためには、根本的なところで社会に対する信頼がないといけないんだろうと思うんです。自分はこの社会に受け入れられているんだ、この社会に生きる場所があるんだって、本能的に、無意識的に信じられることが大切なんじゃないかという気がしてる。

その最初のステップは、やはり両親の愛、家族の愛から始まる。使い古された陳腐な言葉ですけど、親から受ける「無償の愛」は、社会に対する信頼の始まりだと思う。子どもはまだ未熟だし、できないこともたくさんあるんだけど、親はそれでもかわいがって、世話をしてくれる。見返りを求めることなく、受け入れてくれる。子どもはそんなこと意識していないと思うけど、自分が生きて行くことを当たり前だと感じ、疑問をもたない。この段階で、社会に対する信頼、自分には生きていく場所がある、っていうことが精神の深いところに刻まれていくんだと思うんです。

やがて小学校に入学し、中学校に進む。子どもたちは自分の生きて行く社会を少しづつ広げていくわけです。いじめられたり、けんかしたりしながらも、少しづつ広がっていく社会の中で自分の居場所を模索していく。軋轢はあるけれども、自分の存在を確認しながら、自己を確立していくんですよね。

受験、なんて人から査定されるイベントもあるんだけど、これは、基準がはっきりしている。所詮、点数なんだから。そりゃ、点数取れる方がいいには決まってるんですけど、それだけが社会、世界じゃないことは明らかだし、ダメならダメで、別の道はいくらでもあるし、もっと勉強がんばる、なんていう対策もある。世界は広いし、生きていく場所はいくらでもある。

学歴社会を非難し、受験戦争は点数だけで判断するのがけしからんと非難し、内申点やらなんやらを取り上げて、「点数だけではなく、もっと総合的な能力や潜在力を見て合否を決めるべき」なんていう人がいるけど、もしそんな試験ができて(できっこないけど)、かつその試験に落ちちゃったらどうするわけ?人間失格なわけ? 結局、現場で起きたことは、内申点を上げるためだけのボランティア活動に忙しい、よい子ちゃん競争にいそしむ子どもたち、だったじゃん。そんなの、もっと病んでるよ。

あ、話が逸れた。

とにかく、社会に対する根源的な信頼、が、アイデンティティの確立の前提条件のように思うんですけど、今の日本の新卒の採用制度っていうのが、この「信頼」を崩すような働きをしているように見えるんです。学生に対し、「あなたは社会に必要とされていない」と宣告する仕組みを構成してしまってる。さっきの、点数だけでなく総合力を判定する受験、と似たような感じ。基準がよくわからないけど、よくわからないなりに努力を求められて、受かればいいけど、ダメなら人間失格かっていう気分にさせられてしまう。みんな「新卒」をありがたがるので、この機に内定もらえなければ失格、おしまい。強烈なストレスです。自己の存続にかかわるストレスになると思う。引きこもっても当然だって思うよ。

両親の愛、家族の愛を受けて育ち、学校という大人社会の予行演習を経て、やっと自分っていうものを培ってきて、さて、社会に出るぞっていうところで、一斉にふるいにかけて、「あなたは社会に必要とされていません」って宣告する。採用側にそんなつもりはなくても、まだまだ脆くて不安定な学生さんたちにとっては、そりゃ、アイデンティティの危機になってしまいますよ。

私の場合は、とりあえず社会に出てみて、おかしいな、こんなはずじゃないよな、って転職を繰り返したり、もう一回大学院に行ってみたりして、とりあえず自分自身の衣食住くらいは賄えるところまで来ました。幸運にも鬱病にかかることもなく、ホームレスにもならなかったし、生活保護も受けずに済んだ。でも、今のご時世は、そんなことやってると「非正規」から「ワーキンブプア」への深い穴に落ちちゃったりする恐怖もあるよね。そんな時代じゃなくてよかったと、正直、ちょっと安堵している自分もいます。

でも、やっぱりひとつだけ。

就活のただ中にいると、それが世界のすべてのように感じられるし、ちゃんとしたところに勤めないと体裁も悪いし親も心配する、っていうのもあるかもしれないけど、意外と世界はもっと広いんじゃないかな。息苦しい日本から逃げたっていいし、自分一人くらいなら養える道は「新卒でどっかの会社に入る」以外にもあるよ、きっと。

August 05, 2010

高品質な手摘みの綿花


新しいジーンズを一本欲しいなと思ってネットを散策していて、こんな感じかなと思ったのが、「FULLCOUNT」というブランドのやつ。 公式ページはflashを多用し過ぎていてゲンナリするんですけど、amazonで取り扱いの方を先に見つけたもので。

で、公式ページの方を見てみるとさ、

「FULLCOUNTのジーンズで使用しているのは、綿花の中でもハイクオリティーとして名高いジンバブエコットンを使用しています。」

「ジンバブエコットンはアフリカの大自然の恵を受け、じっくりと大きく育てられています。すくすくと育った綿花を完全に開ききったところでひとつひとつ手摘みし綿カスなどの不純物を取り除きながら収穫しています。」

これはこれは。

「・・・使用しているのは、・・・使用しています。」と、日本語的には正しくない文章で書かれているのが残念ですが、ジンバブエ産の綿花を使ってるんですねぇ。デザインはこんな感じがいいかな、と思って見てみたら、素材もそういうことですか。 これはお買い上げ決定でしょう。

って、防縮加工をしていないとか、履いているうちにフィットしてくるとか書いてあるんで、サイズを頼りに通販で買うのは危ないでしょう。店員に聞きながら試着して買いたい。幸い新宿伊勢丹とかで取り扱ってるみたいなので、次の一時帰国時に買うことにしましょう。

*   *   *

「ひとつひとつ手摘みし綿カスなどの不純物を取り除きながら収穫」というのは本当らしいんです。2、3ヶ月前にイランのアフマディネジャド大統領がジンバブエを来訪した時(世界の鼻つまみ者同士で仲良くしているのであります)、イランはジンバブエの綿花生産に投資するとか、綿花の輸入を拡大するとかなんとか、耳障りの良い話をばら撒いていったんですけど、そのときにジンバブエのムガベ大統領が「当国の綿花はひとつひとつ手で摘んでいて、高品質」と演説で自慢していたのを覚えてますよ。

でも、たぶん、高品質な綿花を生産しようと思って手摘みをしているんじゃないと思うんですよね。綿花は換金作物なので、かつては白人農場主が大々的に、商業的に生産してた。その頃は黒人労働者が低賃金だったはずなので、機械を入れるよりも手で摘ませた方が安かったのかもしれない・・・。

で、ご存知の方も多いと思いますが、ジンバブエ経済は2008年に、自国通貨が億とか兆とかの位のハイパーインフレを起こして崩壊。経済崩壊の発端は農業崩壊だったし、今やまともな農業を行えている農家はほとんどいなくなっちゃった。機械設備もほとんど使えなくなっちゃって、要は、今は手で摘むしか術がないのかもしれない・・・。

FULLCOUNTの言っていることはたしかにそうだろうと思うんですけど、「ハイクオリティーとして名高いジンバブエコットン」は意図してやってるんじゃなくて、結果的にそうなってるだけ、っていう気がするよ。

August 01, 2010

日本海呼称問題

なにか新しいことや、気の利いたことを言おうというのではなくて、こういう問題が議論されているの知ってる?ってだけの話です。

日本海呼称問題。

当然だと思われている「日本海」という海の名前、これを「東海」と呼ぶべきだという韓国の訴えがあるんです。韓国は1992年頃から国際社会にこの主張を問い始め、実際に各国の政府や地図出版社に働きかけを行ってます。なんでも、韓国側の主張によれば、「東海」という呼称は2000年前から使用されており、「日本海」という呼称は帝国主義時代の日本がその国力によって無理矢理強制した呼称であるから、「東海」に戻すべきだとのこと。

こういう話って愛国心を駆り立てるものなので、世界各地の公の場に掲示されている地図で「日本海」「Sea of Japan」と表記されていると、何者かが「東海」「East Sea」と上書きしていくという事件も報告されている。たぶん、そこを訪問した韓国人がやっているのだろうというのは容易に想像されますけどね。

で、実際に、「日本海」を「東海」と表記する地図が徐々に増えている。あるいは「日本海(東海)」とか「日本海・東海」といった表記も出てきている。

他方、日本政府側は世界中の主要な図書館の古地図や古文書を調べて、韓国側の主張に根拠がないことを訴えている。それによると、「日本海」という呼称が概ね定着したのは17世紀、18世紀とか、そのくらいらしい。っていうか、まともな古地図が世に登場したのがその頃、っていう気もするけどね。で、その前は特に決まった名前がなく、海に名前が書かれてない場合も多いみたい。しかし、古文書や古地図にあの朝鮮半島と日本列島の間の海に名前が表記されている場合は、ほぼ「日本海」。古くは「東洋海」(Oriental Sea)や「朝鮮海」(Sea of Korea)という表記もあったらしいけど、日本政府の調査によれば、どの時代にあっても「日本海」とする文献が大多数で、その他の呼称が使われている事例はわずか。ましてや「東海」という呼称はその中でもさらに稀な例で、事実上ほとんど使われたことがない呼称らしいです。

韓国側が「日本海」の呼称を嫌う感情も分かる気はする。帝国主義の日本に痛めつけられ、最後には併合され、民族の誇りを蹂躙された歴史がある。しかも、「恨」(ハン)を美徳とする国民性。その韓国の東に横たわる海が「日本海」というのは、たとえ戦後65年経ったとはいえ、心穏やかではいられない。わずかでも「東海」と呼ばれた事実があるのであれば、やはりこの海は「日本海」ではなくて「東海」であった、「日本海」という呼称は日本軍国主義の名残だと主張もしたくなるでしょう。

この日本海呼称問題、問題が他の領土問題と比べて様相が異なる点があります。当たり前ですが、日本、韓国、双方とも領有権を主張しているわけではない。日本海は国際法上の公海、どの国にも所属しない海なんですよね。公海の呼び名を争うという事例は他に例がない。

世界各国、領土問題を抱えている国はいくらでもあって、各国は領土問題を解決することはできていないけど、領土問題がどういう問題で、どういう風に扱うべきかということには、それなりに慣れている。「ああ、2カ国、3カ国が領有権を争ってるのね、歴史的経緯はどうだったのかな。民族的、文化的帰属はどっちにあるのかな。でも、A国の主張を認めたら、我が国が抱えている別の領土問題での主張と矛盾するな。B国は我が国の友好国だし、ここで主張を認めておけば恩が売れるかな。云々。」って感じで外交ゲームが日々行われているけど、公海の名前を争うっていうのは例がない。

例えて言えば、パキスタンがインド洋を「インド洋」と呼ぶのはけしからん、あそこは「南海洋」である、と主張するのと同じ状況なわけです。日本側は、一国の国内的事情で公海の名前を変えさせようとする挑戦が認められるとすれば、そういうことも起こりうる、として国際社会に訴えている。また、国際海洋交通、国際航空交通上の混乱も無視できないとも訴えている。

しかし、各国の地図出版社や放送局などの中には、韓国の主張に「そうなのかなぁ」と納得して「東海」の表記を載せるところが若干づつだけれども増えているらしい。


別に私は嫌韓でもないし、隣国同士で仲良くやっていけばいいじゃん、って思ってますけど、両国間には竹島問題や歴史教科書問題に加えて、こういう問題もあるんですよね、っていう話です。